昭和42年10月1日 朝の御理解      



 昨夜の御祈念の後の御理解に、御理解14節の「神様は荒地荒れ屋敷をお嫌いなさる」という御教えがある。荒地荒れ屋敷をお嫌いになる。だから、お嫌いになることでは、神様がお嫌いになるようなことでは、おかげは受けられないことも、もちろん分かります。
 ですから、その荒地荒れ屋敷がきれいに耕される。きれいに、そこに物が育つような状態にすれば、それと反対にお喜びなさるということになるのです。神様がお喜び頂けるような状態に私どもがならなければ、おかげは受けられません。ね。
 その、私は信心。荒地荒れ屋敷をお嫌いなさる。なるほど、その、荒地が荒れ屋敷がある。というのは、もちろん、その荒地荒れ屋敷でもありましょうけれども、私どもの内容、または周辺、私どもの周囲に荒地荒れ屋敷。例えて言うなら、私の心の中が荒れておる。これでは、どんなに喜びの種を蒔いても、良い物が育つはずはない。私どもの周囲にも、例えば、親子の仲が、または夫婦の仲が、または、人間関係、隣近所とのお付き合いならお付き合いの上においてもです、荒れ屋敷状態、荒地状態であっては、良いおかげが受けられるはずがない。
 という風にこの御教えを頂いてまいりますと、実にその、深さ、広さというものを感じます。私どもの周囲には、なるほど、これじゃ神様がお嫌いになるはずだというような、その、荒地荒れ屋敷がたくさんにあることですよ。ね。そこんところをです、私どもがおかげを頂いて行かなければならない。まあ、そういう、今は、その、荒地荒れ屋敷をお嫌いなさるということを、内容的に、または霊的に御理解を頂いたんですね。例えば、今日、ここの、椛目から合楽にかけて、椛目からこうした人も助かる場というものが開けて行くためには、容易ならないことであったのでございます。
 もちろん、これは神様の目から、神様の働きからしてみると、本当に、まあ、良うもここまでお互いがお育て頂いたと、こう思うのでございます。同時に、ここが、こうやって御造営が出来ましたり、私が教会長として、ここの中心をなさせて頂けれるようなおかげを頂くようになるまでには、ずいぶんと、ただ、ローマは一日にしてならずでありましてですね、やっぱり十何年間という間の神様の働き、私どもの様々な信心精進、努力というものも、やっぱあってのことでございますけれども、それに、まあ、ここの根ともなられる、柱ともなられる、で、もう、この世にない御霊様達。なるほど、本当に道のためと言うか、この、本当に立派な教会が設立される。親先生が教師になられて、お装束を着けられるようになるまでは、死んでも死にきれないというような思いで、その、思いを込めておられた方達なん。
 そういう御霊様達が二十柱ございます。その二十柱の御霊様達に、その、教会設立の報告も申し上げると同時に、十何年間の間のお働きに対して、それに報いさせてもらう、いわば、慰霊のお祭りを、これは、もう誰がせんでも、私が一人ででも、まあ、どれだけ金がかかっても、これはさせて頂きたいと、こう願っておったことでございますから、それをさっそく、この、今晩の月次祭に併せまして、それに、報告祭、と。そして、その御霊達へのお礼なり、または、お詫びなりをさせて頂きたいという願いの元に、今晩、まあ、その働きに報いるお祭りとでも申しましょうかね、をさせて頂くのでございますが、そのことをお願いさせて頂きよりましたらですね、そういうことが、荒地荒れ屋敷をきれいにして行くことだ、と。
 ね、これは、いわば霊的なものですよ。ね。私どもの周辺に、私のために、または合楽のお広前のために一生懸命に勤めもされた、働きもされた方達がです、荒れたまま、荒地荒れ屋敷のような状態で、その、今までおられた。例えば、その二十年の中には、ほとんど半分ぐらいはですね、もう、御信心に縁のないという人達があるんです。もう、後もほろけもないという人があるんですよ。
 信心なんかは、もう、全然、その方一代で中絶、いや、その人もです、まあ、途中から信心を止めておったというような人達もあるんです。まあ、例えて申しますなら、江口の古賀さんなんかがそうです。古賀ひでさんという、熱心な夫人がありましたですね、皆さんもご承知の通りです。もう、婦人総代をしておられた吉田みねさん辺りでもそうです。ね。善導寺の原よしはるさんなんかでも、もう、後がないのです。
 人が、弟さんが残っておられるということを聞いて、あっちこっち探してまわったけれども、その人の行方すら分からないちゅうな状態に、御霊さんがあるわけですよ。それでも、やはり、ここで、やはり何がなし、ここの中心。中心とまでは行かんにいたしましても、ここのために働かれた御霊様を、本当こう、来らせて頂きまして、やはり二十年からあります。ね。
 その方達が、もう、本当に荒地荒れ屋敷状態であっただろうと、こう思います。それが、こう、潤うて来るわけなんですね。そこに、神様の働きがあり、そこにおかげの育って行く、喜びが育って行く元が出ける。それは、そういうおかげを頂かなければならんから、御霊様のお祭りをするという訳じゃない。それは、もう止むに止まれん、私がそうさせてもらわなければおられない。
 古賀さんなんかは、もう、亡くなられる一年ぐらい前から、ここにお参りを止められましてですね、ある新興宗教に変わってありました。ほれはあ、もう、椛目の親先生は日本一と思いよったけれども、今、私が信心しておるところは、もう、世界一の先生がおられる所だというように、その、ような状態になっておられたんです。亡くなられるちょっと前、中村さん達がみんな、お見舞いに行かれた時、もう、いわば、本当に私の信心が間違うておった、中村さん、私が悪かった、と。
 親先生にどうぞよろしゅう、と言うてですね、ちょうどそん時に、まあ、ここでは一つの一例でございますけれども、古賀さん自身がお夢に頂かれたのにですね、筑後川に畳が浮かべてある。その畳の上に乗って、下っておるところを頂かれたと言うんですよ。ね。いかにも、畳が濡れてない間は立派なようにしとるけど、段々だんだん、畳が濡れて来たら、これは沈むより他にないでしょうが。
 そして、椛目の先生は日本一だけれども、私が今、信心しよるところの先生は、もう、とにかく世界一の先生だから、アンタどんも参りなさいと言うて、こげんお導きしとった人までも、その、そういう風に自分がされるというような状態になっておりましたけれども、それが、例えば3年か5年かであったに致しましてもです、私のことを一生懸命思い、お広前のことを一生懸命思うて下さった。
 その功に対しては、やはり、私は報いるんだと、こう思うのです。そういう例まだいくらもあるんです。今晩、御霊のお祭りを受ける御霊の中には、ある場合には、私を泣かせ続けた御霊もあるんです。ね。けれども、その、泣かせられただけじゃないんです。泣かせて、泣かせられる度に、私が信心が飛躍しておるということです。ですから、やはり、功労者に間違いないんですから、そういう御霊。
 もう、私は、今晩のお祭り、私、祭員の方達にです、お供え買いに行くでもどうでも、全部、お供え買って整えよるわけでございます。誰もお供えをする人がおらんのですから。いわゆる、その御霊様達に。全部、買い行って整えなきゃなりませんから、いくらお金がかかったっちゃよか、記念品でも何でも、もう、その、どれだけ、まあ、どれだけでもかかってもちゅうこっじゃないけれども、まあ、十分なことが出来んにしても、一生懸命のものを現して行きたいというような、まあ、気持ちで今晩のお祭りを仕えるんです。
 それがですね、私の心の中に、その、今晩のお祭りのことを思うただけでですね、私の心が潤うて来るんです。ね。その、潤うということなんですね、信心は。心が喜びで潤うて来る。ね。干ばつから干ばつ、お日照りからお日照り。もう、それこそ、パサパサとした、それこそ、水分も何もない、そこから、今まで育っておったものまでも枯れておる。昨日、田主丸の植木屋さんがお礼お願いに来たんですけれどもね。私は有り難いと思うんですけれどもね、そういう、本当にお願いがあるとですね、神様が印にでも見せて下さることが有り難いです。
 この前も、森部の高山さんが、その、お天地のことをお願いされた時にも、本当にまね方ではあったけれども、お湿りがあったです。昨日、その、古賀さんていう方ですけれども、大きな植木屋さんです。これが、もう、それこそ、もう、自分の身代をかけて、もう、これで自分がか分伸びるか、落ちるか分からないというようなその、気 持ちで、まあ、バクチのようなことで手を出された、その、植木の山がですね、枯れかかっておるから、見に来てくれと言うて、その、電報が来とる。
 というように、その、お願いにみえたんです。そしたら、今朝は、こう、ちょっと、やっぱお恵みを頂いておりますよね。ですから、これがですね、一人が十人、十人が百人の力になって、例えば、この天地に対してすがる心が出けたら、潤いが頂けれる。ね。
 もう、天地のことは仕方がないということはないです。やっぱり、あの、願わにゃいかん、すがらにゃいかんです。ね。本当に、この、パサパサしたような土地に少しでもお湿りがあるということは、これは潤い。私どもの心にもそうです。何か知らんけど、まあ、朝から文句の一つも言いたいような時には、もう、あなたの心に全然、潤いがない時なんですよ。ね。
 もう、朝、目が覚めて、もう不平不足を言うておる。自分だけじゃない、言われた者もやはり気分が悪い。もう、これではおかげの受けられるはずがない。そこで、自分の心の中に潤いのないことを悟らせてもろうて、その潤いを頂くために、信心のけいこをさせてもらう。ためには、人の喜ぶことのために、神様が喜んで頂くのために、または、先祖御霊様たちが喜んで下さるためにです、思い、それを行じさせて頂くところに、私が今日の御霊のお祭りのことを思わせて頂いただけでも、自分の心の中に一つの喜びが湧いて来る、潤いが湧いて来る。ね。
 これが、外部からの、いや、例えて申しますならば、いよいよ、10月の月に入りました。16日には秋の教祖大祭に併せて、ここの開教式が行われます。来賓の先生方だけでも40名からございます。もう、九州中の偉い先生方が集まられます。ね。それに対するところの、それを迎えるだけの、それを奉迎、まあ、委員会といったようなものが組織が出けて。ね。
 出けただけで、何の働きもないようなことでは、これはいけません。その持ち場立場においてです、それを奉迎し奉る。それを迎え奉るための準備が、先ずなされなければいけない。例えて言うなら、古賀さんなんかが、ここ2~3日、朝参りをされておられる。
 先生、御大祭まで修行させてもらいたい、と。例えば、そういうようなものだ。ね。そこにはですね、私の心も、いよいよ、こう、潤うものにしてくれますですね。これは、外部からちょうどお湿りを頂くようなもの。ところが、さあ、もう後、御大祭は、御本部参拝がありますから、それを抜きますと、もう十日しかなか、言うなら。と言うのに、そのことに対して思うておるのやら、思うておらんのやら。そのことの準備にかかっておるのやら、かかっておらんのやら分からんような状態であるような時に、私の心が荒れてくる。ね。だから、それを荒したんでは、いよいよ、信心に値打ちがないでしょう。
 甘木の先代が仰ったそうですね、やっぱ、こういう旱魃の時だったでしょう。あるお百姓さんが、どうぞお湿りをお願い致しますと言うて、お願いをされた。ところが、甘木の先生が仰った。雨がな、上からばっかりは降らんばいと仰ったそうです。ね。雨は上からばっかりは降らん。潤いというものは、お恵みだけのものじゃない。下の方からも湧いて来るんだ、ということなん。
 私が今日、皆さんに分かって頂きたいのは、それなんです。ね。どうぞ、お湿りを頂きますように、潤いを頂きますようにという願いもいい。けれども、先ず、自分自身の心の中から潤いが湧いて来るようなおかげを頂かなければならないということなんです。ね。
 もう、大祭が近づきよるとに、信者はほけんごつしてから、どうしよるじゃろうかと言うて、自分だけが、私だけがイライラモヤモヤしたところで、そのイライラモヤモヤにおかげの頂けるはずがない。ね。それでも、やはり、思わんわけじゃない。そんなら、自分自身を思うてみる以外にはないのだ。
 私自身が、私自身が、もっともっと神様に通うもの。もっともっと、私自身が深められて行かなければならないて。ね。甘木の先生の、われ良しと思う心、いわゆる、われ良しと思う心を仇のように思う、仇のように思う。ね。自分が出けとるとに、信者が出けんといったようなところには、もう、おかげはない。
 ね、自分が出けんから、行き届かんのだ、みんなが。自分の信心が出来ないから、みんなの信心も出けないのだ。ね。そこに、私は思いをおく時に、人を責めることはない、信者をとやこう言うことはない。私だけが、いよいよ深めさせて頂く。そこから、力湧くような、ね、潤いを頂く以外にはないのである。
 皆さん、今日は特に、その、潤いということ。自分の心の中に潤いというものが、どの程度に頂けておるかということをです、ね、息子が言うことを聞かん、嫁御が言うことを聞かん。かいたところに手が届くようにしてくれりゃ、自分の心は、そりゃあ豊かでいいでしょう、喜びになるでしょうけれども、それは、外部からお湿りを受けたようなもの。それも、また大事。ね。
 言うならば、なら、皆さんがです、どうぞ開教式、または、秋の御大祭前には、だいたい、今まではひと月前ぐらいから、みんな修行に入る人がずいぶん多かったんです。ところが、今度はそういう御大祭をというのにも関わらず、様々な諸事問題が多いからでもございましょうけれども、そのために、お届けをしてから修行にでも入っておるという人が、もう、本当に少ないということですね、今度の御大祭は。
 しかも、特別のそうしたお祭りを迎えなければならないと言うのに、そのための修行をしておる人が少ないということです。これは、私としては寂しいことなんです。ね。寂しいだけなら良いけれども、これが、イライラ爆発するようなことになって来るようなことでは、まあ、ならないと私は思う。
 これは、私自身が修行不足だな、と。まず、ね、私自身が、これは、もっと、このことによって、人が悪いのじゃない、われ良しと思う心をいよいよ仇として、取り組んで行かなければならない、いよいよ、改まって行かなければならないということを思う。
 そこから、生まれて来るところの信心が、地の底から湧いて来るところのおかげである。ね。そこに、私の心を荒地荒れ屋敷にせんで済むのである。ね。けれども、皆さんとても、私のお祭りじゃないでしょうが。私が教師になることも、私が、ここが教会になることも、私の願いじゃなかったでしょうが。
 私が、金光様の先生になるていうて、一遍だって言うたことなかったでしょうが。ここに教会の看板をあげたいと言うたことなかったでしょうが。それを見たのは皆さんであったでしょうが。ね。その、なら、皆さんの願いというものが成就したのであるから、そのところの、なら、お祭りが、もう、ここ十日、16日ですから、十幾日後にここで奉仕されるということですから、ね、それでは、皆さんがおかげを受けられないと私は思うんですよ。ね。
 ここに一段とです、私は自分の心の中から、ね、本当に地の底から湧いてくるような信心の喜びを持って修行させてもらい、ね、御大祭なら御大祭、開教式なら開教式に当たらせて頂かなければならない。そして、銘々の立場において、そこんところを真っ当させて頂くためのです、願いと修行が必要じゃなかろうかという風に思うです。皆さんの心の中に、潤いがちっと欠げておるのじゃなかろうか、パサパサしておるようなことはなかろうか。ね。まず、それには、天地が自由になると仰るのであるから、どうぞ、外部からのおかげも願わなければならんと同時に、自分の心の底からも湧いて来るところの潤いを願うために、私は修行が必要じゃなかろうかという風に思うのです。どうぞ。